□あなたと厚揚げのある風景
渋川にある藤原とうふ店。
横からくる太陽の光に足元の影が長くなる時刻。
夕食と明日用の買い物を終えた奥様たちは帰路につき、やっと店内の客足も消えていった。
長い付き合いとはいえ、相も変わらぬ奥様パワーに翻弄された疲れを癒すように、店主である文太は煙草の煙を吐き出していた。
その耳にもう聞き慣れた車のエキゾーストが入ってくる。
それはいつも通りに、店の斜め前に停まったようだ。
少しの間とともに、遠慮がちに入口から声がかけられる。
「あのー、こんにちは」
声の主は、拓海が晴れ晴れしく峠にデビューしたレッドサンズの一件以来、日をあけずに通い詰めている池谷浩一郎その人である。
「またあんたか…」
文太はよく来るなと付け加え、苦笑いしている池谷に何となく答えの分かっている質問を投げかけてみた。
「今日は何の用だ?」
すると案の定「厚揚げください」とゆう返答が返ってきた。
この商品しか無いかと言わんばかりの頻繁度である。
だが、売り切れ仕舞いのこの店に取り置きでもしない限りは、品物が残っているはずも無いのだが…。
「…あんたも好きだなぁ」
少し呆れたふうにつぶやく文太に、池谷はにこやかに笑いながら言った。
「ここの本当に美味しいんですよ」
その顔につられて文太は煙草をくわえた口元を少し緩めるが、それを隠すように冷蔵庫に移動し厚揚げを取り出して袋に詰めると、いつもと変わらぬ無愛想な表情で応対をするように努める。
「ほいよ、ほら百四十円」
文太はそう言いながら無造作に厚揚げの入った袋を池谷に差し出した。
もう値段も覚えているだろうから、言う必要もないのかもしれないが、これが少ない会話の一つだと思うと省けずにいる。
「はい」
池谷はジーンズのポケットから小銭を取り出すと、この店のカウンターとも言える台に置き、文太から厚揚げの入った袋を受け取った。
「じゃあこれで、…また来ます」
「…………っ」
そして軽く会釈をしてゆっくりと店から出て行く池谷に、文太は何かを言おうとして留まる。
その間に、車のドアが閉まる音が微かに響いた。
「もう少しゆっくりしていきゃぁいいんに…、どうせ暇なんだしな」
一体、自分は池谷に何を話したかったのだろうか…?
それも分からないまま文太は独りごちて、先ほどまで池谷がいた場所に視線を落とした。
きっと明日の同じ時間には、またそこにいるだろうと…。
一方、池谷は先ほど文太から受け取った袋をナビシートに丁寧に置くと、とうふ店を確かめるように視線を移す。
「……」
しばし思いに耽った後、その自分の考えに小さく溜息を吐く。
そして何度だって足を運ぶ覚悟を決めると、サイドを外してゆっくりとクラッチを繋いでいった…。
「池谷…か…」
文太は自分が無意識にその名前を呟いたことは知らない。
遠ざかっていくブローオフバルブの開放音に、自然と耳を澄ませたことも…。
続