□風 / y.c
荒れ狂う時代の幕開けだった。
--世界大恐慌--
そう人々は口にした。
そんな名前の付いた時代だった。
簡単すぎる言葉に既知感。
安易に想像だってできた。
それがどんなに不幸な人間達を生み出していたかなんて解っていた。
瞬きする間さえも与えられない緊迫感も、酷濁とした眼も知っていた。
腐った空気しか呑めない場所もあった。
明滅する街灯の下、路地に横臥する子供だって珍しくはない。
今となっては何が誘引になったのかなんて誰にも解らない。
築いたものの価値が失せ、見失っていたものに価値が出る。
求めていたものに裏切られ、掴みかかったものが消え失せる。
慌ててもがいてもどうにもならない。
全てが潰えてしまった時代。
蔑むべきものとはなんだったのだろう--…。
恥ずべき行為とはなんだったのか?
今ではそんな事ですら忘れ去られていた。
繰り返される猜疑。
感情の欠落、人としての欠陥。
糾弾する者もいなかった。
時の流れに罪を擦りつけ、こじつけでも己を正統化しようと蠢き、最初に無くしたものにも気付かないまま、大義名分を振りかざし論じ続ける。
脆くて儚い希望。
臆病になった人と街。
歩みを止めてしまった世界。
そう言われるようになってどのくらいの歳月が流れたのだろうか…。
もう考えるのも億劫になっていた。
その中でも、以前の、いや…それ以上に華やいだ生活を送れる者もいる。
ほんの一握り程度だったが、確実に貧富の差もあった。
その多くが覇を競い排擠するような者たち。
元々素質があったのだろう。
良くも悪くも。
奪取することに慣れ、平然と屍を乗り越えられる人種。
それすらも黄金色のものに変換できる、世界と共に狂った人種だった。
大きな都市、華やかさの残る街。
そこほど醜い「ブタ」が蔓延していた。
そんな本性というものが剥き出しになった世界だった。
いや、本質とでも言うべきか?
欲望に忠実になったその姿はケモノより卑しく見えた。
…けれど。
それが全てではない。
『まだ』
そう、まだ、旧態依然を保っているような田舎の町だってある。
痩せた土地に育つ僅かな穀物を生活の糧にして、信仰心すら捨てずに生きるような優しい人々が暮らす小さな町がある。
生有ることに、日が上がることに喜びを見い出せる町。
幸せという器の大きさが違えど、それで満足できる所もあった。
元々欲の少ない心は剥ぎ取られるものも少ないから?
世情に遅れているから?
ただ単に目を背けているから?
そのどれが当てはまっていたとしても、現実にそこでは「世界」なんて比喩に近い言葉はチープな響きにしかならず、たいして意味のないもので終わっていた。
…はずだった。
『まだ』のはずだったのに。
そこに一陣の風が、ふいに紛れ込んできていた。
その風の名はなんと言ったのか…。
風は気紛れにやってくる。
望もうが、望むまいが関係なしに。
もう認めないといけない。
自分達の世界の汚さを。
もう此処にも、その静かな営みにもピリオドが打たれるのだ。
□ □ □ □
…その夜は見事な満月だった。
想像を絶するくらい長い歴史の中で、姿を変えずに闇夜を照らし続けるそれを可哀相だと思ったのはいつのことだったのか。
その透き通るような青白い光が絶え間なく注ぐ中、町一番の大きな木の下に人の影が長々と伸びていた。
影の主は何をしているのか…。
華奢とは言えないが細い肢体。
顔を隠すほどに長い髪。
それを掻き揚げる細い指、その仕草。
この場面を目にした者は、それの性別の判断に一瞬戸惑うかもしれないが、月の恵みを受けた白い肌が発光するように浮き上がれば、それが少年であることがはっきりとわかる。
歳は十代後半の域に入るだろう。
その少年は誰かと待ち合わせでもしているのか、人気のないこの場所で、木に寄りかかったまま動こうとはしなかった。
さわさわと葉が揺れる音だけが響く静寂。
その中に一人佇む彼は、先ほどから流れ行く緩い風が、体に纏わり付いていくような感覚を覚えていた。
気のせいだとしても、気持ち悪さに眉を顰めずにはいられない。
季節的にも涼しいはずなのに、背中にじっとりと汗を掻きそうなくらいの妙な湿気も感じていた。
こんなことは無論初めてのことだった。
この時の少年はまだ知らない。
それが『予感』だったのかもしれないと。
ただ、知っていたとして逃げられもしない、厄介な風。
その風がどこから来て、何を連れて来たのかなんて知る由もない。
ただ、薄気味悪いだけだった。
慣れ親しんだはずの木々さえもが自分の知らないものに見えて、そこに眠る深い暗闇に眩暈すら起きそうになる。
それを打ち消すように、ふいに少年は月を睨んだ。
--今日のは…でかいな
そんな感想を口にして、すうっと切れ長の目を細める。
思わず零れてしまった言葉に、ガラじゃねーなと付け足しながらも、少年は目を逸らさなかった。
確かにその言葉通りに大きな月。
何気なく見ている時は気にならないものでも、こうやって仰ぐように見るとかなり大きなものに見えた。
そして太陽のように絢爛とした強い光はないものの、包み隠さず万人に晒すその姿は、疎い少年にも美しいと感じさせるには十分なものだった。
今の自分を照らすものはそれだけで、絶対的な支配者に包まれた気分だと言えばいいのだろうか。
知らずにそんな安心感を求めたのかもしれない。
ふと少年が何かに気が付いて、再び視線が降ろされる。
それと同時に、ガサッ…と風の仕業ではない乾いた葉擦れの音が地上から伝わった。
「ごめんね-、遅れちゃって-」
少年の視線の先に飛び込むように現れたのは長い髪の少女。
その澄んだ高い声が静けさを打ち消した。
まだあどけなさが残る彼女は、緩くウェーブのかかった髪を揺らしながら悪びれもせずに少年に近寄り、手を合わせて形だけの謝罪をする。
「なんだよ、人が折角時間通りに来てやったんに」
少年は待ち人が来たことに内心安堵しながらも、口を尖らせて一応の抗議をするが、こちらも大して気にした様子はなかった。
少年と少女。
名は慎吾と沙雪と言った。
二人の関係は幼馴染になる。
家も隣に位置し、それこそ物心ついた時から何をするのにも一緒で、繋がりが深い田舎では、両親たちも親類のような付き合いをしていた。
彼の方の両親が二年前に事故で亡くなったときも、共に悲しんでくれた今世では稀少と言われる人達で、それで関係が終わる事はずもなく沙雪の両親は今まで以上に彼の面倒を見てくれていた。
だからなのか彼、そう…慎吾はけして素行がいいとは言える方ではなかったが、それでも沙雪とその両親に迷惑を掛けるようなことは一度たりとなかった。
そんなこともあって、今でも二人は当然のように一緒にいる。
そのお陰で恋仲と噂されているのも知っていたが、当の本人達は気にせずに自分たちのいいようにやっていた。
今もその一環。
座り込んで、いつものように繰り返されるお喋り。
年頃の娘の話は長く、くだらないものが多かったが、それでも慎吾は沙雪に付き合って浅い相打ちを繰り返している。
それ自体はよくあることで取り立てて珍しくもなかったが、彼にはどうも引っ掛かっていることがあった。
それはこんな時間に呼び出された事と、彼女から感じる違和感。
まず、未だかつてこんな遅い時間に理由もなしに呼び出されたことがあっただろうかと気になった。
休むことなく喋り続ける彼女の話は、取り立てて今に限ってするようなものではなく、明日、もしくは次に会った時にしても差し障りがないものばかりだった。
感じた違和感は、薄っすらとしか見えない表情からではなく、多分、声や喋り方から感じ取ったのだと思う。
--付き合いが長いってのも厄介だな。
隠したくても隠せないのは今更だ。
だったら聞くのも二人の無言の決まりごとだった。
本当に言いたくないことなら、その後で断ればいいだけだから。
「沙雪、どうした…?」
慎吾は彼女の言葉が途切れた瞬間に言葉を滑り込ませた。
途端に瞳が僅かながらも揺れたのを見逃さない。
それを見られたことに沙雪も気が付いたが、敢えて誤魔化すように反論してくる。
「何が?なんでもないわよ」
すぐに作るはずだった笑み。
それが自然な形にならなかったのは問題の大きさからだろうか…。
失敗して中途半端なもので終わってしまい、バツが悪そうに視線を逸らして苦笑していた。
こんな彼女は初めて見る。
一体何事かと慎吾もそれなりに動揺したが、こんな時に聞いた方がそれを見せるのは反則だと知っている。
「嘘こけ、何でもねーってツラかよ」
だから茶化すようにわざと明るい声で言ってやった。
相手の気持ちが解るからこその芸当で、こうやって今まで二人は通じ合ってきたのだ。
「やっぱあんたには解っちゃうのね-」
沙雪もそれが嬉しいと、今度はちゃんと笑ってくれる。
その笑顔でいつもの彼女に戻った事を悟ると、取り敢えずホッとして次の言葉を待つ体制になった。
ここから先は、興味半分で聞くことじゃない。
どんなことでも言ってくれれば親身になって相談に乗るし、嫌なら黙っていればそれ以上の事は聞かずに自分で何とかさせる。
大体が前者になったが、それがお互いのやってきたこと。
彼女は慎吾を見つめ、言いずらいことなのか一旦唇を強く噛んだ。
それが決心の表れだったのかもしれない。
そして、その唇が再び開かれた時に発された言葉は、今までのどんな相談事よりもとんでもなく逼迫したものだったのだ。
「あたしね、ここにいられなくなっちゃったんだよ」
「……え?」
我耳を疑う。
いなくなる、と言う言葉が何を指しているのか解らなかった。
「かもしれない」ではなく、既に決定しているとの言い方。
勿論、慎吾は初めて知らされた。
その言葉を聞いた時、あれほど気になっていた風が止んだ気がした。
突然すぎる告白に動揺を隠すことはいくらなんでも無理で、ただ呆然と彼女を見つめるが、そんな慎吾とは裏腹に、彼女の方は腹を括ったらしく、えらく普通の声で言ってのけた。
「三日後にはこの町から出て行くんだ」
それが家族でなのか、一人でなのかは分からないが、それよりも何で突然そうなったのか慎吾には解らなかった。
小さな町では直ぐに噂になって耳に入るはずなのに。
「ちょっっ!ちょっと!!なんでだよっ!?」
慎吾はそんな突然突きつけられた別れに納得できるはずはない。
彼にとって彼女は唯一残された特別な存在だったのだから。
血相を変えて詰め寄る慎吾に沙雪は面白そうに声を立てて笑うと、まるで他人の噂話でもするように人差し指で彼の腕を突付いた。
「聞きた-い?」
「ったりめーだろっ!てめーの話は急すぎんだよ!」
自然に慎吾の声が荒らぐ。
それが完全にいつもの彼女だとしても、どこか無理があるような感じがして、苦しそうに思えてならなかった。
妙に勘ぐってしまうのは、あの不安を感じさせた風が運んできた空気がまだ残っているからだと、それのせいにしてしまいたかった。
そう、気のせいなら良かったのに。
ただの引越しとか、仕事の関係とか、新たな学校とか、理由になるものは沢山あったはずだ。
都会ならもっと色々なことが考えられたのだろうが、この土地で直ぐに頭に思い浮かぶのはそのくらいだった。
なのに、そのどれもが違うと、彼女は白々しいまでの明るい声で語る。
「うちの親がさ-、馬鹿でさ、ホショウニンってヤツになってたんだけど、その金を借りてた奴が夜逃げしちゃったんだって」
「…………」
確かに沙雪の両親は知り合いに泣いて頼まれたらその場で保証人の欄に名前を直ぐにでも書きそうだと、慎吾は自分の知っている夫妻を思い浮かべる。
よくある話だと思った。
話自体はよくあるものだった。
ただ、この田舎ではまだ聞いた事のない話だっただけで…。
確かに世間体は悪いかもしれないし、これから先、哀れみを蒙った目で見られるかもしれないが、だからと言って彼女がいなくなる理由はまだ見当たらない。
そのくらいに彼女の家はこの辺りで一番裕福だし、「在」でもあり、それ故にこの土地から出て行くことは考え難かった。
だとしたら、残されたものは何なのだろう。
彼女の表情からは窺い知ることはできない。
その代わりに、沙雪は言葉でのヒントを慎吾に与えた。
「それが結構な額でさ-、堪えらんないよね、このご時世にそんな馬鹿な役を引き受けるんだからさ。だから、あたしが行くの」
そう続けて。
--だから、沙雪が行く?
確かに彼女はそうに言った。
慎吾は平和ボケした頭をフル活動させて考える。
その言葉からは彼女が一人で行くらしいことは解った。
「だから」と言ったその行為が多額の資金の調達になることも。
では、それは一体なんだ?
思い当たることは少なすぎる。
その限られた中でも、以前、手先の器用さを買われ、街に仕事に出た時に目にしたもの、聞いたことが彼女の言葉に一番近いような気がした。
何かの警告音のように脳に響く耳鳴りが鬱陶しい。
「………沙雪…?」
まさかな、と思う。
杞憂であってほしいと。
でも、確かめようと名前を呼んだ声が震えてしまって、自分の中でそれが答えとして確立されたのだと知った。
「なに深刻な顔してんのよ、似合わないよ、あんたじゃ」
きっと彼女も慎吾が言いたいことは解ったはずだ。
でも、否定もせずにやっぱり笑っていた。
慎吾とは対照的な声が、逆の立場だと思わせるほどに。
「まさか、お前……?」
もう訊くまでもなくなってしまったが、どうしても信じられなかった。
そんなことは自分たちには関係の無い事だと思っていた。
そう、今の今まで。
変わり映えの無い退屈な毎日に悪態をつき、隣の地区にある街を横目で見ながらも、慎吾自身ここでの暮らしが気に入っていたのだ。
けして豊かではなかったが、それなりの暮らしが望めた町だったのだ。
外の世界を忘れていたわけではないが、唐突に突きつけられた現実に酷く汚された気がしてならなかった。
それが他ではとうの昔に当たり前になっていることでも。
--ここも変わってしまうのか…?
いつかこの土地だってそうなると覚悟していたはずだった。
一つ事が起きれば均整が崩れることも。
今日まで安穏と暮らせていたこと自体が、そもそも奇跡に近かったのかもしれない。
今更それが嫌だと駄々をこねるつもりも毛頭ない。
でも、変わってしまうにしても、別のことだったならよかったのだ。
先駆者として運命に選ばれた女が彼女ではなかったら、憐れみの言葉の一つでも掛けて終わっていたはずだった。
それなのにどうして。
どうして白羽の矢が当たったのが沙雪だったのか。
親が死んだ時よりも激しい憤りに手が震えた。
何もできない自分にも腹が立った。
そんな慎吾の心情を知らない彼女は、何がおかしいのか小さく笑う。
「あーあ、こんなことだったらもっと青春を桜花しとくんだったな」
「沙雪っっっ!!!」
ふざけるように言い放つ彼女に、つい大声を出してしまった。
らしくなく、卑屈になっているのかもしれないと。
それを責めることはできなくても、そんな言葉は聞きたくない。
けれど、
「うるさいよ、慎吾。あたしだって覚悟がいったんだ」
そう叱咤する彼女には自分の流されるしかない立場を悲嘆した様子も、時代や親に向けられるはずの慷慨心もなく、静かに運命を受け入れただけのように見えた。
ただ、そのくらいは言わせてよと、瞳が悲しく語る。
「…………」
そうだった、彼女の強さは慎吾が一番良く知っているはずだった。
表面だけを飾る慎吾とは違い、それを心に漲らせる彼女をいつも羨んでいたことも思い出した。
だから何も言えなくなる。
譬え慎吾が言えたとして、言葉なんて結局何の役にも立たないのだ。
今の慎吾は引き止める権利も、金も、何も持ち合わせていなかった。
そうやってなんでもないことのように話す彼女は、覚悟を決めるまでの間、泣きはしなかったのだろうか。
慎吾に話しながら何を思っているのだろうか。
「…だって、どうにもならないじゃない?もう決めたんだから」
彼女は短く息を吐くと、慎吾にそう諭した。
そうだ、きっとどうにもならないのだ。
彼女の言っていることは詭弁などではない。
一人娘で、とても可愛がられていた沙雪。
慎吾のような他人にさえ手を差し伸べる慈悲深い両親。
どう考えたってこんなことになるはずがない。
なのに沙雪が売られていくと言うことは、慎吾では到底考えられないほどの莫大な金額が記された紙切れが届いたことを物語っていた。
これは沙雪が自ら言い出したことなのかもしれない。
でも、それじゃあまりにも悲しくないか?
女として、人として、悲しくないか?
本当にそれでいいってのか?
「よかったら遊びに来てよね」
敢えて沙雪はそんな事を言った。
その言葉が彼女自身にとって、どんな惨いことを表しているのか、慎吾にだって解らないはずがない。
そういった場所だってことも知っていた。
…大切な幼馴染が行く場所を思い知らされる。
「あ、でもダメか。あたしじゃあんたの手の届かないくらいの値段になってるからね、きっと」
沙雪は言葉を続け、慎吾を最後まで言及する立場には立たせない。
それが残されたプライドだとでも言うように。
そして慎吾は答えなくてはならない。
一番近しい者の役目として。
彼女に選ばれた送り出す者として、言ってやらなければならない。
彼女はきっと、この言葉を待っている。
「…バカ言ってんじゃねー…よ。誰がてめーなんかを金出してまで……」
慎吾は空気でさえ詰まる喉を騙して、やっとの思いで声を絞り出した。
ここで愁場を演じるべきではないのだ。
沙雪もそれを望んでなんかいないのだ。
今日ほど幼馴染という言葉を疎ましく思ったことはなかった。
やっぱり解ってしまうんだ。
彼女の普段どおりの口調で発せられた言葉に、「絶対に来るな」と言う意味が込められていることも。
それが解らなければ、いつか迎えにだって行けるのに。
「………慎吾、あたし、あんたと幼馴染で良かったよ。楽しかった」
今だからこそ伝えられる言葉。
今、言わなければ二度と言えない。
「ああ、俺もだ」
絶対に言わないはずだったのに、言ってやらないと決めていたのに、素直に口から零れていた。
こんなことになってまで輝きを失わない彼女。
最後まで自分の行く場所を言わなかった彼女。
その不撓な態度は慎吾の好きなところでもあった。
月に照らされ、まるでこれからの人生に戦いを挑むような光を宿す瞳は、なんと言ったか…神話にでも出てくる女神のようにも思えた。
「じゃあね、慎吾」
「ああ…、じゃあな、沙雪」
バイバイとも、また、とも言わない別れの言葉。
それだけが違うだけで、沙雪はいつもと変わらない背中を向けた。
ここに来た時と同じように、髪がふわふわと揺れる。
その明るい栗色の髪を、笑顔を、できることなら太陽の下でもう一度見たかった。
--突然すぎて、…涙も出なかったぜ
もう、会えないのだろう。
もう、会わないのだろう。
お互いに縋って泣くのが嫌で、こんな別れを選んだ沙雪。
辛くても、それを告げに来てくれた沙雪。
ずっと一緒だったのに、失ってしまうのか…?
慎吾は取り残された場所で、瞳に焼き付けるようにして振り返ることのないその姿を見つめる。
影さえも、音さえも完全に消えたあとは、まだ彼女の温もりの残るであろう地面を代わりに見ていた。
--どうにもならないでしょ?--
そう言った沙雪の声が木霊のように頭の中で反復する。
--どうにもならないでしょ?--
--どうにもならないでしょ?--
そして次に顔を上げた慎吾の瞳も、先ほど彼女に見たものと同じものになっていた…。
(けどな、てめーは……)
絶対に行かせない。
事情は解った。
けど納得なんかできやしない。
止んでいた風がまた緩やかに動き出した。
彼に賛同するように頬を撫でて。
本当は、今日までは、もしかしたらこのままずっと一緒にいて、呆れて結婚しちまった…なんて馬鹿げたことになるかもしれないと、少しだけそんなことを考えたりもしていた。
いや、相手なんて誰でもいいから幸せになってくれればいい。
優しくしてくれた夫妻のためにも、彼女の幸せが願いだった。
幸せな土地で幸せな結婚をして、そして誰もが羨むような幸せな家庭を築いてもらうはずだった。
誰にも言ったことはないが、幼い時からそう思っていた。
見守ってやりたいと。
それが、叶わなくなるだって?
こんな形で?
普通に考えれば、黙って見送るしか術がないように思えるだろう。
仕方がなかったんだと自分に言い訳をして、記憶が風化するのを待って、うつろいゆくのだろう。
だが、彼の口端は吊り上る。
拒否するように。
自嘲ではなく、確かな意味を持って。
震える手を拳に変えて、行かせない、と、音もなく呟いた。
-- 一つだけ希望が残されているのだ --
そう、一つだけ。
慎吾は都合よくそれを知っている。
話の上で、だが。
「ハハハハハハッ」
気が付いたら声を立てて笑っていた。
その自分の思考を。
腹を抱えて。
止めることすらも忘れて…。
その声は風に溶ける。
…そして
また月が変わらぬ姿を現した時
彼女の元に『代金』が届き
少年は町から消えた
ああ
また
新たな歯車が狂いだしたのだ
風と共に
つづく